深夜の松屋にエドワード・ホッパーを思う ネギ塩豚カルビ丼とNighthawks


出典:wikimedia

冒頭の絵はエドワード・ホッパーという画家のNighthawksという作品だ。

僕は彼の作品が好きで国内に作品がやって来たら是非行きたいと思っているのだが、いっこうに来そうな気配が無い。

彼の作品が好きな理由を一言で述べるならば、見てるだけで想像力がかきたてられる点にある。
人物が出てくる作品は言うまでもなく、人物が無い作品でも、彼の絵を見てると何時間でも想像を巡らせられる。
その想像もアグレッシブにイマジネーションがあふれるようなタイプじゃない。
街角でたまたますれ違った人や偶然電車で居合わせた人について勝手にその人の人生のバックストーリーを考えてしまう類の想像。

彼独特の光の描き方も好きだ。
絵のなかの光線を見ているとじわじわと思索の紐を引っ張られてしまう。
光の画家と言えばレンブラントが有名だが、僕はホッパーこそ光の画家だと思う。

Nighthawksはなかでも一番メジャーな作品で彼を代表する作品としてよく知られている。
いまからちょうど70年前に描かれたこの作品は、美術史的には“都会人の孤独と憂い”を予言した作品としても有名だ。

今日、夕食を食べに近所の松屋に立ち寄ったところ、Nitghthawks的世界がそこには展開されていた。

絵の中の店はおそらくニューヨークかどこかのダイナーだろうけど、僕がいた大阪は西中島の松屋も時空を超えて同じ空間がそこにはあった。

食券マシーンにお金を入れて食券を買い、席に着く。
たどたどしい口調の外国人のスタッフが注文を復唱する。
1、2分で料理が運ばれてくる。
店の中にいる客たちは僕を含めてほとんどが一人。
みな申し合わせたように携帯の画面を見ながら料理を口に運んでいる。

こう書くと心情的にこういうシチュエーションを否定しているように見えるが、僕自身は全くそういうつもりはない。
事実としてこういう風景がそこにあった。
そして冒頭のホッパーの絵を思い出したのだ。

思えば、こういう松屋や、いわゆる牛丼チェーンを利用するようになったのはいつのころからだろうか。


大学に出てくるまでの18年間を、僕は兵庫県の豊岡市という裏日本の田舎町で過ごした。
そのまちには当時、まだコンビニやファーストフード店は全く無かった(できたのは20世紀末)。
当然吉野家をはじめとする牛丼チェーンなど一店たりとも無かった。

牛丼屋というものが存在しているということは、都会である京都に出てきて初めて知った。
正確に述べると世の中に吉野家というものがあるということは知っていた。
けれども、田舎にいた当時はどういうシチューエーションでどんなふうに食べに行く店なのか実感として想像できなかった。

初めて吉野家に行ったのはおそらく何かのコンパの帰りか、麻雀をやった帰り、いずれにしろ時刻は明け方か深夜だったと思う。
遊び呆けて小腹が空いた僕たちは誰かの提案で吉野家に行くことになった。

吉野家にまだ行ったことがなかった僕は、行ったことがないなんてこともおくびにも出さずに友だちについて行った。
あの頃の僕は田舎出身であることを恥ずかしく思い、僕からすれば大都会出身の彼らに対してひどく羞恥心を覚えていたものだ。

注文したのは今よりもずいぶんと値段が高かった大盛か特盛だと思う。
記憶のなかの初ヨシギュウは、最近のものよりも味が濃く、紅ショウガも真っ赤だ。
そしてそれまで味わったことのなかった気だるい空気感をそこで覚えた。

牛丼屋を経験してしまった僕は、以来、世の男性と同じように手っ取り早く食欲を満たしたい時や、懐がさみしい時にちょくちょく利用するようになった。


今日は近所の松屋でねぎ塩豚カルビ丼を食べた。
最近、一人で夕食を食べるときはよく松屋を利用している。

メインに利用する牛丼屋も、かつては吉野家一辺倒だったのにいまでは松屋に変わってしまった。

以前は決して松屋を美味しいとは思わなかったのに不思議だ(このあたりの変遷はまた別の機会に)。

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