一手間の効果。義理チョコをもらって気づいたこと。

昨日はバレンタインデーでした。

今年も職場のみなさんから、たくさんのチョコレートをいただくことができました。ありがとうございます。

全て、職場、仕事関係のみなさんからのチョコレートなので、いわゆる義理チョコです。

関係の近い人からのものもあれば、あまり仕事でも絡むことが少ない方からのチョコもありました。

チョコの種類も、簡素なものから、高そうなものまで、様々でした。

もらいものをケチにを付けるわけではないですが、今日は、この義理チョコについて気づいたことがあるので書きたいと思います。
 
チョコレートをもらうとうれしい。

たとえそれが義理チョコでも、ああ、僕のことをきにかけてくれているんだな、と自分の存在を認めてもらえた気になる。

別に中高生じゃないんだから、モテてるとかは気にならない。

もらったほうの気持ちとしては、まずもらえたことでとてもうれしいのだ。
いやっほう!もらえたぜい!となる。

正直チョコレートのグレードはどうでもいいと言える。

そりゃあ、高いお金を出して美味しいチョコレートを選んでくれた気持ちには感謝するが、バレンタインデーというイベントでは「チョコレートの味」は二の次。

実はもらったほうの人間の記憶には、あまりチョコレートのこと自体は記憶に残らない。

今までもらってきた義理チョコで記憶に残っているものをピックアップすると、そこに一つの共通点がある。

たとえばそれは、似顔絵だったり、手紙だったり、メッセージカードだったりする。

そう、一手間の工夫がそこにはある。もっと言うと、もらう人間のことに触れた工夫だ。

極論を言うと、何千円もするショコラティエのオリジナルチョコレートとメッセージ付きのチロルチョコだったら、後者のほうが僕はもらってうれしい。
(こういうアンケートやったら、8割がメッセージ付きを喜ぶ、という結果が出ると思うんだけど、どこかでやってないかな?)

義理チョコを贈るという習慣のテーマというか目的は何だろうか?

それは普段お世話になっている人への感謝の気持ち、あるいは仲のいい友人・知人関係の関係性の確認など、何がしかポジティブな気持ちを相手に届けることだと思う。

義理チョコは気持ちを届けるというイベントなのだ。

そうであるならば、チョコレートの種類や値段に悩んでお金と労力をかけるよりも、いかに相手に気持ちを届けるかということにパワーをかけるほうがよっぽどいいと思う。

繰り返しになるが、チョコレートをもらえたことだけで感謝の気持ちでいっぱいです。

けれども、もらったチョコレートを目の前にして、一つ一つ開封していくという作業を行なっていくと、そこにはチョコレートのグレードとはまた別の気持ちの動きがあるのです。

もらっておきながらケチをつけてるように思われるかもしれませんが、許してください。

コミュニーケーションやクリエイティビティに携わる人間として、見過ごせない気付きだったので書いてみました。

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