2013/06/20
“結局、歴史的事実なんか当事者じゃない限りわからないわけでしょ。
僕は歴史っていうのはフィクション、物語としてしか受け止めちゃだめだと思うんですよね。
歴史を科学の実験結果みたいに唯一無二の確固たる一つのものみたいにとらえるのは危ないと思うし、歴史っていうものを課題評価しすぎていると思う。
だっていまからたかだか70年や60年ぐらい前のことだって、各々の解釈や評価は別として、事実ベースの話の歴史としてもあやふやなわけですよね。
もちろん一人一人の人間、本人しかわからないことは一つの事実しかないわけですよ。そこはやはり大事にしなくちゃいけないわけだけど、それはやはり一人の人間としての事実なわけで。
たとえばいま歴史学会というか、あるところでは聖徳太子は実在していなかったみたいなことがうんぬんされたりしてるわけですよね。
ある日までは当たり前だったことが、後出しジャンケンみたいに、あれはウソでした間違ってました、みたいなことになってるわけでしょ。
恐竜の存在だって僕達は化石から恐竜というものがかつて存在したというふうに受け入れているわけですけど、これだってこれから先もしかしてどこかの段階で、いや、アレは宇宙人が地球人をひっかけるためにやった壮大なイタズラでした、っていうオチがこれから先の未来で判明するかもしれないわけでしょ。
つまり、なにが言いたいかって言うとですね、歴史なんてものはいいかげんだっていうこと。いまは当然のことと受け入れてる歴史的事実ってやつがある日突然、間違ってました、今日からはこれが正解ですっていうふうに、それまでの何十年、何百年の教育はなんだったの?って呆れるちゃうぐらいに簡単に覆される可能性を持っているっていうこと。逆に言うとそれぐらいの確かさしか持ち合わせてないわけよ。
だから社会なり教育なり学問なり政府なりの立場で話される歴史ってものは信用できないし、話半分で聞くぐらいでいいと思うんですよ。話半分というか、話そのもの、おはなし、物語として受け入れてちょうどいいぐらいだと思うですよ。
だからもちろん国益がうんぬんとか、プライドがどうのこうのとかあると思うけど、そこまで青筋立てて反論するのものどうかと思うですよね。
結局自分自身という一人の生身の人間の歴史に自信が持てない人が、自分以外の物語にすがっちゃっているという情けない構図が、洋の東西、今昔問わずあるのでしょうけど、それが問題なんですよね。もっと自信持ちましょうよ。
自信がない、自分の物語がない、だからっていって“我々”の物語に安易にすがりなさんなよ、と言いたい。
っていうわけで、歴史がどうのこうの言うのってほんっとにナンセンスだと思うのよね
”Patriotism is the last shelter of the scoundrel.
Samuel Johnson
(愛国心は卑怯者の最後の隠れ家
サミュエル・ジョンソン)
2013年6月20日 居酒屋ハイビスカスにてKEN5談