2023/04/20
「街とその不確かな壁」村上春樹的マルチバースあるいは喪失と憧憬、村上春樹グレートギャッツビーを書く
突然の新作発表
村上春樹の6年ぶりの新作長編が発売された。
6年前に出た「騎士団長殺し」は、ちょうど発売時に私の長男が誕生したこともあって、すぐには購入しなかった。
「騎士団長殺し」は発売から半年後に読んだが、第二部の途中まで読んで読むのをやめた。
内容に乗り切れなかったのもあるが、初育児をめぐる諸々で読む時間の余裕もなく、また、ちょうど小説的なものを読みたい気持ちが過去最低だった時期なのだ。
今回の新作長編は村上春樹が1980年に発表した中編とタイトルがほぼ同じだ。
その中編タイトルは「街と、その不確かな壁」。タイトルに句点があるかないかの違いだ。
この中編は文芸誌に発表されて以降、村上の意向もあって書籍化はされることはなかった。全集にも採録されていない。
書ききる技量がないまま発表したため、本人的には「いつか書き直したい」作品である旨が公言されている。
いっぽうでこの中編は、その後「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という長編へ発展的に昇華されている。
村上の作品には私が把握している限りでも、長編「ノルウェイの森」のベースとなった短編「蛍、納屋を焼く」、長編「ねじ巻き鳥クロニクル」と短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」など、短編・中編をベースに別の長編作品へと発展させるケースが複数存在している。
それぞれの長編には短編と共通の設定やシーンが出てくるので、両者を読めば基となった作品がどのように進化したかを確認することが可能だ。
しかしながら「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(個人的には村上春樹の最高傑作と思っている)の基となった句点ありの中編は、事実上の絶版状態のため、両者の相違を読者は確認することができない。
こういう前提がありながら(というかその前提を私は知っていただけだが)今年の2月1日、6年ぶりの長編が4月13日に発売されることが新潮社から発表された。
そのタイトルは句点なしの「街とその不確かな壁」だ。
いやが上にも期待が高まるというものだ。
句点ありの発展作である「世界の終わりのとハードボイルドワンダーランド」のなんらかの続編なのか?
あるいは、書き直したいと公言していたとおり、ついに書き直した作品を満を持しての発表なのか?
もしくは、これらとはまったく関係のない新たな作品なのか?
その日、私のGoogleカレンダーに2カ月後の発売日が登録されたのはいうまでもない。
Kindeで読むかフィジカルで読むか
そして迎えた先週木曜日の発売開始。
今回、村上春樹にしては初めて発売と同時にKindle版も提供される。画期的な出来事だ。
なお、Kindleだろうがフィジカルだろうが価格は税込2,970円で同じだ。
もとより買う気満々だから全然いいのだが、ずいぶん強気な価格設定だ。
発売日当日は朝からクライアント先へ直行する用事があった。
その道すがら、Kindleで買うかフィジカルで買うか思案した。なんて楽しい思案だろう。
最近すっかり読書はKindleメインとなり、Kindleの利便性を知ってしまった今となっては、Kindeでの購入に心がなびいた。
が、最終的に梅田のブックファーストでフィジカルを買うことにした。
おそらく1週間以内に読み切ってしまうだろうから、メルカリでほぼ定価で売り抜けることを見越してだ。
リセールバリューがある新作で一度これを試してみたかったのだ。
再読したくなったとしても数年後の話だ。その時には文庫本も出ているだろう。
Kindleで読んだ場合、リセールはできない。
ここまでは実際に読むまでの話題で、以下からは実際に読んでみての感想と私なりの考察である。
繰り返される村上春樹モチーフ
第一部は主人公と影との離別で終わる。
世界の終わりでは、現実パートと囲まれた街パートがそれぞれ独立した形で一章ずつ交互に現れてきたが、この作品では現実パートと街パートはそのような構図を辿らない。
現実パートでは45歳の主人公目線で、15.16歳頃が回想される。
1つ年下の恋人との出会いと別れが中心に描かれる。
壁に囲まれた街はこの恋人が語る夢想のような形として描かれる。
分離された影、夢読み、壁に囲まれた街、単角獣、壁抜け
長文の手紙、恋人との突然の別れ、進学を機にした上京、他者との交流を避ける主人公、一人で完結したライススタイル
村上春樹の過去作で何度か目にしたモチーフ、事物が繰り返される。
街からの脱出を決意するが土壇場で街に残ることを選び、影と別れることを選ぶ主人公。
この選択と結末は世界の終わりと同じだ。
ここまでが第一部。
私は絶版となっている中編版を読んでいないが、中編版はこの第一部なのでないだろうか。
というのも、第二部以降と明らかに読後感というかリズムが違うのだ。
細く説明できないが第二部の後の付け足した感が否めない。
話の運び方としても、影と別れて街に残ることを選んだはずなのに、唐突に現実世界に戻る展開はストーリーとして破綻していないだろうか?
地方の図書館、キリッとして媚びない女性、主人公を導く饒舌で優しい老人
両親にスポイルされる子供
デートで自宅に誘って手料理でもてなす
頑張らないメニューだけど愛情を感じるラインナップ
ちゃんと時間通りに茹でないとダメなパスタ
そしてなんといってもアイロンがけを趣味のように語る主人公
第二部は第一部にも増して村上春樹作品の既視感が強い。
第二部は現実世界に戻ってきた主人公が会社(書店取付大手)をやめ、地方の図書館館長として転職以降の話が中心となる。
読みながら正直盛り上がりにかけるなと思った。
白状すると途中何度か読みながら寝落ちしてしまった。
残りのページ数が半分を過ぎ、三分の一を過ぎ、終わるに向かっていくことが分かるにつれ、第二部の先にもう一度場面展開して第三部が来ることを期待する思いが強くなった。
しかしながら残りのページ数があとわずかにもかかわらず、場面転換の兆しを感じられない。
このまま図書館館長としてストーリーがどのように結末を、迎えるのかはわからないが、この時点で私が一つ思ったのは、こういことだ。
世界の終わりで、影と別れて壁に囲まれた街に残ることを選んだ主人公は、村上の言葉でいうところの“デタッチメント”、社会的責任から距離を置き、何にも縛られず、世俗的な価値を拒否した人生観を象徴していた。
だからこそ20代で世界の終わりに出会った私は、いまになって思えば若者らしいある種の潔癖さをこの作品の魅力としと感じていたのだろう。
デタッチメント。それは村上春樹作品の一つのポリシーであり、作者本人の哲学でもあったはずだ。
しかしながら句点ありの最初の中編と世界の終わりから、40年近くを経て、齢74になった村上にとって、あの選択はいまになって思えば青過ぎたのだろう。
村上春樹による青春への落とし前だ。
本質的にはイデア的世界たる街に残りたいが、街にとどまることはできず、デタッチメント的ふるまいを撤回し、社会に向き合わざるをえなくなった村上自身の自伝的回想を多分に含んでいると思われる。
村上春樹的マルチバース
いっぽうで、この作品は村上春樹が村上春樹作品でマルチバースを構築したらこうなっただろうなとも思わせる。だって村上春樹的なもののオンパレードなのだもの。
突然主人公から開陳されるクラシックとジャズの知識もそうだ。
過去作の既視感が強いと書いたが、登場人物の役割、描写の仕方、プロットの骨子、いずれも過去の村上作品のありえたかもしれない別バージョンを読んでいるかのような気にさせられる。
私の眠気を誘った要因はもしかするとここにあるのかもしれない。
喪失、憧憬、グレートギャッツビー
と、ここでのこり数十ページを残してのまさかの第三部突入。
実は第二部は壁に囲まれた街から脱出した影から見た話だったことが第二部の最後に明かされる。
そう、ぼくらはみんな誰かのそしてなにかの影なのだ。
第三部は再び壁に囲まれた街が舞台になる。影と分かれた主人公、本当の「私」はずっと街に残って夢読みの仕事を続けていたのだ。
イエローサブマリンの少年に夢読みの仕事を託し、街を離れるべきであると悟った「私」は、街を離れる決心をし、現実世界へと暗闇を落ちていくところで小説は終わる。
物語を通じて結局、恋人との再開は果たされなかった。
失われたものへの憧憬、影たるこの不完全な世界の基底となるイデア的世界への渇望が全体を通じて色濃く滲み出ている。
憧憬的情景が繰り返し現れ描写されるこの作品は村上春樹によるグレートギャッツビーなのだ。
というのが一週間かけて読んでみた私の感想だ。
あとがきを読んで
この作品には村上には珍しくあとがきが用意されている。
本人はあとがきは蛇足であると釈明しているが、あとがきを読むことで私がこの作品を通じて想像していたことの答えあわせ的楽しみがあった。
村上春樹作品のファンでなければ正直楽しめ作品ではないと思う。かなり読書を選ぶ作品だと思う。
反面、村上春樹ファンにとっては解釈みがとても高い、味わいがいのある作品ともいえる。
以上が私の感想と考察である。
最後に、
「小説に意味を求めるのは間違っている。そこに意味なんてない。人生と同じようにね。ただ楽しめばいいのさ」
ちなみにちょうど読み切ったその脚で今朝メルカリに出品したところ、早速2780円で売れた。
初メルカリ。